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インタビューを受けました

建築本棚

本を読みます

機会があって先日、あるインタビューを受けた。

何度か経験はあるが、その場で考えていることをパッと離すことに慣れていないのでいつも後になってあれを言えばよかったなど後悔が絶えない。

最近ハマっていることや趣味について、本を読むことくらいしかしていないので、それを答えた。

 

 

学生は自分が本を読まないから勝手に人類皆本を読まなくなったと思い込み、勝手に本の救済を始める。失礼な話である。

昔から鞄の中には常時4冊程度本が入っている。学生の頃は建築、小説、歴史、もう一冊何かと決まっていたが、最近は歴史がなくなり、その他いわゆる教養本雑学本が入っている。

 

当時歴史を良んでいたのは、旅行先で興味が持てるものが少なかったから。歴史が少なからずわかることで、興味の幅を広げたかったはずである。横山光輝から入り司馬遼太郎、塩野七生、‥今も知識はだいぶ偏っている自覚がある。

 

教養とは、役に立たないものらしい。学校の勉強と同じである。役に立てようとするから嫌になる。どうせ役に立たない雑学と思うと意外と面白い。

 

 

 

物理学科にいた経験から、建築を始めた時に物理関係の本を読まなくなってしまっていた。

どこかに変なプライドがあった。

 

最近一般書で物理関係の本を読むと試験に関係ないために、案外面白い。役に立たないからである。

当時、、お世辞にも真面目な学生とはいえなかったので、完全に置いて行かれていたのだが、今思うと専門書である教科書も学生に理解させるために書かれていなかったのではないかと思う。

今更入門書を読むと不可解だった量子力学もこの歳になってやっと意味がわかってきた気がする。

学生のころシュレディンガー方程式はただ暗記しているものだった。

 

毎日出てきていたので、なんとなく語感が似ているシュレッダーの紙がバラバラに切り裂かれる映像が頭の中で何度も再生される。一緒に脳みそがバラバラになるなる感覚である。

むしろ、シュレディンガーの猫より学校の研究室裏に屯していた野良猫が学生が適当に廃棄した変んな物質でも舐めて変な病気にでもなっていないか心配になったりしていた。

どう考えても当時の方が問題は解けていたが、距離を置くとこんなことをやっていたんだと今更分かったりしている。20年も前に迷った道を今更地図で辿っている感覚である。 4年生の時よく卒業論文が書けたものである。いや、そこそこ天邪鬼な僕は建築に移ることを決めてから物理を勉強したハズだ。卒業間際はギリギリでわかっていたと信じたい。

当時の同級生には笑われるだろうか?

今は数学、政治、経済、哲学、生物、地学、鉱物にも手を出してみた。

数学くらいはぼやっと知っているつもりだったが、やはり範囲が広い。全然知らないことを思い知らされている。

政治もおかげでやっとニュースが面白くなってきた。

そのほかのほとんど触れたことのない学問のの本を読むことは、旅をしている感覚に近い。緑積凝灰岩とニーチェを従えて旅しているようなものである。

昔はソファや絨毯でのたうちまわって本を読んでいた。今ではどうしても電車内が多い。

混み具合さえそこそこであれば長時間でも気にならないむしろ自分にとって大事な時間だとさえ思う。

そう言えば最近、10歳の息子が本や漫画を手に床でのたうちまわっている。やはり本は読まない人に救済されるほどつまらないものではないようだ。

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